万物理論グレッグ・イーガン

私は過去2度ほどSFを読み漁った時期がある。 最初は中学1〜2年生のとき、その頃はさほど本好きだったわけでもないと思うのだが、通っていた中学の結構充実した図書室にあった少年少女向けSFを片っ端から読んでいった。 いま一度は結婚した後、SF好きの連れ合いの薦めに応じて嬉々として名作を読み漁った頃だ。

それ以外ではタイトルや背表紙の解説に惹かれてたまにSFを掴むといった程度なのだが、私がグレッグ・イーガンを気に入った最初は『祈りの海』だったか『幸せの理由』だったか、ともあれ短編集だった。 多分、サイエンスの取り上げ方と人間社会に対する興味のバランスが私の趣味に丁度合ったのだと思う。

それ以来、好んでグレッグ・イーガンの作品に手を出しているが、なんでも読んでみるというほどには入れ込んでいない。 というのは、どの作品もけっして悪くないと思うのだが、当初出会ったときほどの感激にはたいてい達しないのである。 ことによると私にはグレッグ・イーガンの短編が肌に合っているということなのかもしれない。

その鬱憤を『万物理論』にぶつけてしまってはいけないし、十分に楽しんで読了したところなのだが、以下『万物理論』への批判に聞こえる部分があるとすれば、それは単に私の個人的成り行きである。

『万物理論』は創元SF文庫で600ページ、かなり長編の部類に入ると思われる。 それがテーマかどうかは別として、扱う話題は『万物理論』のタイトル通り、これ以上はあり得ないほど壮大だ。

加えてそこが私がグレッグ・イーガンを好きなところなのだが、ハードSF然としてサイエンスの虚構が重厚で、それに応じた人間社会の組み立てにも手を抜かず、更にそれが乾いた現代社会批判を含んでいる。

しかし『万物理論』は、あまりに詰め込み過ぎである。 ハードSF的サイエンスの中身と主人公の活動に従ったストーリーの、両方が目まぐるしく展開した末の謎解きというのがいただけないと思うのだ。 いくら複雑でもハイテンポでも構わないのだが、それならば結末に至る論理を読者に納得させるだけの周到さが必要なところである。

長編の全編にわたってサイエンスとストーリーの両方を目まぐるしく展開させてしまったせいで、まるでご都合主義のご当地物サスペンスドラマのような読後感になってしまった。 これでは興味深いアイディアが勿体ないというか、ストーリーの核となるアイディアが大胆なものであるのに加えて、他にも出色のアイディアを詰め込み過ぎてしまった結果、ハードSF以外の要素がスポイルされてしまったのだろう。

私がグレッグ・イーガンの作品に期待しているのは単なるハードSFではないので、『万物理論』を面白く読ませて貰いはしたが正直なところ少々期待外れであった。

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