陋巷に在り13酒見賢一

『後宮小説』で、酒見賢一氏が築きあげる独特の世界にはじめて出会った。 歴史小説か中国時代物のようでいてそうではなく、ファンタジーのようでもあってそうとも言えず、結局そんな分類を拒んでいるかのような切り口は、著者のその後の作品にも共通しているようだ。

『陋巷に在り』もそうだが、中国の歴史場面を舞台にするものが酒見賢一作品には多い。 超売れっ子作家による著作も含め、歴史や時代小説とファンタジーの融合を試みる作品が最近は多く目につくが、私の読んだ範囲でほとんどの作品が絵空事で終わってしまっているように思われる。

そんな中、酒見賢一氏が中国史とファンタジーの融合に成功しているのは、ひとつにはその説得力にあるのだと思う。 小説は虚構とはいえリアリティーがなければ成り立たない、もしくは少なくとも目の肥えた読者には受け入れられないが、ファンタジーでは虚構が現代人の感覚とは懸け離れた前提の下で築かれる分だけリアリティーを得るのが難しい。 あるいはSFとの対比で見るなら、リアリティー獲得を後回しにしてしまったのがファンタジーであるとさえ言えるのではないだろうか。

しかし酒見賢一氏はリアリティーを疎かにしない。 酒見賢一作品には『墨攻』のように正統派の歴史小説として違和感のないものもあり、斬新な仮説を背景にしたリアリティーは優れた歴史小説のものと同じである。

一方『陋巷に在り』は、酒見ワールド中でもぶっ飛んだ世界が構築される中で歴史がなぞられる。 そのような意味でファンタジー色のとても強い作品だと言えるが、酒見賢一氏は前提が常軌を逸する分だけ執拗にその世界観を読者に説き伏せる。

ときにかなり強引ではあるが、うわべだけで構築した世界観ではそんな技は通用しないわけであり、大胆であるとはいえ深みのある仮定の上に著者ができる限り破綻なく構築しようとした世界だからこそ読者の共感を呼べるのだろう。 たとえ強引かつ執拗になろうとも、独自のリアリティーを守り通そうとする姿勢が酒見賢一作品に通底する特徴であり、それこそが各作品にそれぞれの作品なりの格調を付与している。

さて、『陋巷に在り』は、孔子の愛弟子、顔回を主人公に、実在の人物多数と創作されたキャラクター少々を加えて展開される長大な物語であり、『陋巷に在り13』がその完結編となった。

顔回というのは、品性や才知を孔子に最も高く評価された弟子であると同時に、歴史中での存在感がとても薄い人物である。 それだけに作家が想像を巡らせるに適しているのかもしれないが、それにしても著者は実に壮大な虚構を築き上げたものだ。

孔子を中心に中国春秋時代の魯の国の政変などが展開し、一方では顔回属する原始的儒者の世界の動きが酒見賢一氏によって組み立てられ、ときに微妙に絡みつつ『陋巷に在り12』でとある破滅を迎えるまで同時進行する。 また敵役集団にも個性的なキャラクターが配されて、その出自は次第に明らかにされ完結編たる『陋巷に在り13』でようやく全貌が明かされることになる。

また顔回の棲む陋巷即ちスラムで顔回の身近にいる少女、、や、敵役のひとり妖艶冷酷な美女、子蓉も、顔回や孔子と並び物語展開上重要な役割を果たし、ときに神話の世界までを巻き込んで縦横の展開を見せる。

ただ「意外にあっさり完結させてしまったな」という感がしないでもない。 2巻3巻4巻と読み進むにつれ、「いったいいつまで続ける気だ!?」と当初は思ったものだが、忘れた頃に続きが出てくる喜びをいつのまにか噛み締めるようになっていたのだ。 別に唐突な終り方というわけではないのだが、なんとなく「これはずっと続くに違いない」と思い込んでしまった後だけに、完結を迎えてやけに寂しい気分になってしまった。

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